読書は如何に選ぶべきか
読書は如何に選ぶべきか(1)
(第1巻 第1号)
知識欲にかられて
昔は木が少しく売れると、「洛陽の紙価をして高からしむ」という事があった。今は紙の生産が過剰になって宣伝ビラなど、徒に風に吹き飛ばさせるような時代になった。
それよりも更にうるさい事は、印刷出版が益々盛んとなって、用にも立たぬ事を読まされ、時間を空費する事を余儀なくさるるようになった事である。
それは誰しも知識欲に駆らるるものは、大河の砂の中から砂金を採取するように、止むなく種々の著作をあさり読むがためである。大部を読み尽くして後に、何の得る所もなかった時は、誠に悲哀の感に打たれるのである。
学術は探検
まず学術的論文について、これは結局は人生のある目的に対して、あるものを発見せんとするがためである。決して物好きや遊び事ではない。
例えば今吾人が黄金を得んがために、山に堀り、河に探すと仮定する。この時に学術的研索の結果が、この山にも、彼の河にも、黄金なしと確定すれば、一般の人は、この一行の結果のみを読みさえすれば事が足る。
然るに黄金探検専門家となれば、その論文によりて、何処を探り、如何に掘ったか、という手段と経過とを読む事の必要がある。何となればその研究の方法が不完全であって、未だ気付かざる所に宝が隠されているかもしれないからである。
学者になる為の論文
これ故に学術的論文は、同じ研究に携わる後輩のために、その委しき記録を残して置く必要がある。されどこれはその研究に着手しない人の為には、平常委しくこれを読む必要はない。ただその項目のみを見れば、事が足るのである。これが学術的論文の一般人に興味のない所以である。
なお「この山に黄金なし」という確実なる研究の結果による否定は、往々にして「黄金を発見せり」という肯定的結論と同様の価値のある事さえもあるのである。何となれば、あるいはこれによって、その一方の場所、もしくはこれと反対の方法によって、その目的を達するの契機となる事のあるがためである。
さりながらもし多くの学者が、人生の目的に対する抱負を忘れ、黄金を発見せんとする欲望の気合いを失い、「自分は学者になりたいから研究する」、「学者らしくしなければならぬ」、「学位論文のために、指導教授から研究題目をもらう」とか、いう風になったとしたら、これを読まされる人の身になったら、その迷惑は果たしてどうであろうか。
宝探しの業績
例えば学者が「黄金を得ざれば止まぬ」という意気がなく、徒に「研究のための研究」となり、「まだ人がここへは手を付けていないから」と称して、化物屋敷の縁の下を掘り返したり、あるいは飛行機に乗って、海の果ての狐島を探し回ったとしたら、果たしてどうであろうか。お伽噺の宝探しのようなものである。今日大量生産の学位論文を通読して果たしてこの様な種類のものが、多からず、と断言する事が出来るであろうか。
今医道についていえば、「縁の下堀り」は研究室内に立てこもりて、人間を忘れたる動物実験者に相当し、「孤島探検」は医者の注射療法やさては通俗療法家が清水の底の硅石の白砂を見てこれを金剛石と宣伝するようなものである。
止むにやまれぬ研究
同じ歌にも題詠で、文句をつなぎ合せるものもあれば、止みがたき感情の発露よりなるものもある。
今吾人の頭髪の数は、約8,9万ありという。もしこれが「まだ誰も髪の毛を数えた人は無いであろう」というような野心から出たとしたら、甚だ卑しむべき心情である。また次の学者が、更にこれに倣いて、「サルは人間よりも毛が3本足らぬというから」との好奇心から、猿の毛を数えたとすれば、それは極めて馬鹿げた事である。
されどこれに反して、毎日頭髪が脱落して、次第に前頭部が光輝を放つようになるという事の悲哀の情に催されて、頭髪を計算し、常人は毎日3,40本の頭髪脱落を見、8,9,10本以下は憂うるに足らざるも、それ以上となる時は、注意警戒すべし、との研究結果を得たりとすれば、それは誠にやさしくも真摯なる学者的態度である、といわなければならぬ。これ故に吾人は学者の同じ研究論文に対しても、徒に学者ぶりたる衒学的のものでないか、どうかという事を選別する事は中々困難な事である。
真理の秘鍵
ある学者は睾丸が腹内に保護されないで、何故に殊更に外傷の危険に曝されてあるか。ということに疑問を起してこれを研究した結果、精蟲は腹内では、高温のために発育する事が出来ないから、外部で冷却されている必要がある、という結論に達したとの事である。
斯くの如きは誠に生物界における自然の秘鍵に触れたものである。学究的興味の尽きざる所も、実に斯様な所にあるのである。
以上挙げたような例は、純学術的の論文であって、一歩誤れば、実際の医道からは、次第に遠ざかり行きて、斯様な博士たちが病人を取扱う時は縷々その病人の人生という事を度外視し、単にその疾病そのものを研究興味の対象とするに止まるような事があるのである。
ブック、メーカー
次に教科書もしくは参考書としては、ある科目が種々の階級と程度とにおける従来の研究結果を総説、網羅されたものであって、吾人はこれを書棚に備えて、必要に応じ、一定の事項を調べる事の出来るものである。
また単行本というものがある。ある一定の事項に対し、特殊の研究成績を発表し、あるいは一定の目的に向って人を啓発せんとする一貫せる目的を以てするものである。
例えば「学問と人生」とか、あるいは近頃盛んに流行する「神経衰弱の療法」とかいうようなものである。然るにその内容を見るに、その当の題目に関係した種々の事項を、殆ど直接に関係のない事までも、恰も参考書を抜き書きにし、もしくはこれを換骨奪胎したような書きぶりを以て記述してあるような事が多い。何の目的で描かれたかという事を認むる事の出来ないのが決して少なくない。
あるものを期待して、これを読了した人は、徒に用にも立たぬ机上の半物知りになるのみで、実際の事に対して、何のヒントをも得られぬ事が多い。即ち参考書とも付かず、単行本の意味をもなさぬものである。
ブック、メーカーと称するものがある。例えば通俗医書に「不眠の療法」を書いたとすれば、固より医者に対して不眠に対する知識を授ける目的にも足りなければ、不眠に悩む患者を救わんとする力も及ばないようなものである。その内容目次を見れば、秩序整然として、医学書にもまがうようなものであって、患者は却ってこれがために、半物知りになって、徒に去就に迷うようになるものである。
これは売らんがために、本を制作するものである。民衆は広告の甘言に誘惑されてこれを買わされる。売る人は金のためにその目的を達するけれども、そこには犠牲者がなければならないのである。
衒学阿世
また衒学という事がある。学者ぶる事であって、徒に学者らしく見せかけ、日常の実際事をも殊更に術語を多く用いて説明を難解にせんとするものであって、例えば、「腹を抱えて笑った」といっても差支えのない所を、「不意の変化による滑稽の刺激に対して、笑いの衝動を抑制する事が不可能であった」とか、「笑いによって精神的エネルギーを放散した」とか、いって見なければ、気がすまないのである。恰も日常の生活にも、いかめしき礼装をしていなければ自分の自負心が満足されないような虚栄心からである。
学者の単なるこの虚栄心よりも、更に有害なるは、学者がある偏見から、実際の事実を離れ、しかも見かけは学問らしく精密な研究のようなものに対して、自分がその欠点と誤謬とを見付けるだけの素養がなくて、しかも一般の風潮に従い、付和雷同して、これを学問らしく持てはやす事である。これを学者の阿世といって、つまり自分が学者ぶるために、世論におもねり追従するものである。
通俗療法と幽玄の学理
また曲学ということがある。同じく自分が学者ぶるために、ある常識的もしくは学問的の一定の原理から、やたらに衍繹論法を逞しくして、実際に応用せんとするが如きである。
例えばある患者が、手を病人の患部に当てて、手の振動を与える事によって、病気が良くなったとか、あるいは一種の暗示作用によって、患者の身体に、種々の不随意的運動を起こさせることにより、ある病気が治癒した、とかいうことがあるとする。この一見不可思議なる事実に対して、術者は何か適切な原理を発見しようとする。無学のものはこれを心霊的、神秘的に片付けてしまい、少し教育のあるものは、あるいは医学的に説明しようとする。
これに対して、例えば人間の生活現象は、その身体を構成する個々の細胞の機能から起こる、という原理と、この病の治癒機転とを結び付けて、身体に振動が起これば、これが全身の細胞に微妙幽玄なる興奮を伝えて、神秘なる自然良能を鼓舞して、病の治癒を起こすものであると説明する。これは恰も火の燃ゆるは、炭素と酸素との化合によるものであるから、火災の原因は、必ずこれに由るものである。と説明するようなものである。論理学書を読まないからとて、この論法の誤謬の分からぬというはずはない。
しかもその療法の発見者は、益々深くその原理を説明せんとして、細胞機能学に関する参考書を渉猟して、今日進歩せる学術による生命の神秘にまでも及び、読む人をして、アッといわざされば、止まざらんとしているのである。これは恰も燃焼の科学を幾ら研究し書き列ねても、失火の原因の分るはずがないのと同様である。
読書は如何に選ぶべきか(2)(第1巻 第2号)
木に竹をついだような医学的説明
またある術者は何かの機会に、例えば腹を按摩して胃癌が治った事があるとする。これに対して、苦心惨憺たる思索研鑽の結果、吾人の生命は活動である。随意筋はもとより、心臓でも胃腸でも、活動でないものはない。活動なくして生命はない。活動は即ち筋肉である。医学では、神経系統があって生命があるというけれども、そは一を知って二を知らぬものである。筋肉がなければ、神経も何の用をもなさない、というような論法から出発して、万病は、筋肉の変化を見てこれを診断し、この筋肉を揉みくずし、圧しくだき、撫でととのえてこれを治す事が出来る、と主張する。
馬鹿げたようであるけれども、これ等の議論を様々にいい回す事によって、立派な医者さえも、これを信ずるようになり、これに対して木に竹をついだように、種々の医学的理論を付加するような事さえもあるのである。
胃癌には30%の誤診
以上挙げた例は、非医者で、通俗療法家の腫脹する所である。昨年ある時、通俗医学社で、日本全国にわたりて調べた所によると、これ等通俗療法家の種類が、300幾種に達したとの事である。それは同じ暗示療法もしくはその他の同一手段によるものであって、ただ徒に各々一人天狗になって、奇抜なる看板を掲げるがためである。
これ等多くの通俗療法の内には、医学で当然不知である所の胃癌のようなものが全治したとかいって、医学の上に超然として宣伝しているものが多い。「盲目蛇に恐れず」といえば、それまでの事であるけれども、患者の身になりては危険千万の事である。
そもそも胃癌というものは、甚だ診断の困難なものであって、西洋でも日本でも、その専門家の誤謬が、統計上、おおよそ30%あるとの事である。その内から不治の病に対する誤診を差引いて、当然治癒するものが、仮に20%とすれば、どんな治療法によっても、胃癌は必ず5人に1人は治るという事になる。随分大きな治癒率ではないか。
医学の謬論
以上は医学の知識のないものであるから、仕方がないとしても、立派な医学者であって、これと五十歩百歩の説を立てて、自らその理論の誤謬に気の付かぬものが決して少なくはないのである。
この論理の誤謬の最も多いのは、特殊の事実から一般に推論する事と、逆説即ちコンバースを不注意に使用すること等である。
例えば船暈症について、ある学者は、これを三半規管の障害から起こるという。それは(1)去庵半規管の平衡障害は眩暈を起こす、(2)船の動揺は眩暈を起こす。(3)それ故に船暈は三半規管から起こる。という三段論法である。これは例えば、(1)鋸は切れる。(2)大根が切れる。(3)それ故に大根は鋸で切るものである。という論法と同様である。
この推論はメニエル氏病は、内耳を侵す病である。その時には一定の眩暈症が起こる、という事実とは違うのである。もしこれを以てすべて眩暈は内耳の障害から起こる、という逆説を用ゆるときは、大なる謬論でなければならない。
眩暈については、従来種々の学説がある。例えばトルソーは、眩暈は胃部神経の刺激によりて、内耳迷路の血管神経の興奮を来たし、迷路の内リンパの圧力関係に影響を及ぼす事から起こる、といっている。これはおそらくは、船暈の時に嘔吐を催す事から思い付いたものであろう。然るにこれは却って逆の説明のように思われる。この様な説明の仕方は、例えば鋸で切るときには、歯の方をあてて前後に引き、歯が切るもの内に食い込む事によって切れる。それ故に大根も鋸で切るものである。余計の説明という事以上に何の用にも立たない。
またビンツは、船の動揺によりて、脳動脈の収縮を来たし、脳の貧血を起して、悪心、嘔吐を起すこと、恰も脳震盪の如きものであるという。即ち大根を切るには、刃物を前後に引き動かして実質的に食い入る事、恰も鋸で切るが如きである。というと同様である。
かくの如きは、徒に学問らしく、難解の推論を逞しくするのみで、現象を如実に記述せず、実際に当らないものが多い。その論理の誤に陥る事は、前に挙げた非医者の理論と相隔たること五十歩百歩であるのである。
吾人はかくの如き実用に立たぬものを読む事によりて、却って半物知りになり、空論家になるばかりでなく、更に多くの迷妄に陥るようになる事が多い。吾人が読んで有効なる書物を選ぶ事は、中々一通りの困難ではない。
曲学とは事実を曲げる事である
なお曲学という事について、学者は不注意のため、不知不識の間に、この弊に陥る事が多い。それは学者が自分で、実地の経験が乏しいにも拘らず、自分の学者的立場から、医学的常識を以て、推論を逞しくする事から起るものである。つまり理論を以て事実を曲げるという事になる。その論理の方法と経路とは前に挙げた骨相学等と大なる相違はないのである。
例えば神経衰弱症について、衰弱は疲労から怒る。疲労は過労から起る。過労は刺激の多い事から起る。文化生活には刺激が多い。それ故に文化によって神経衰弱が多くなる、という風に結論する。これは常識論理であって、いうまでもなくその論法経路、の内には、多くの誤謬が含まれている。これは例えば建具屋の繁昌は、建具の注文の多い事からである。建具が鼠に齧らるれば、注文がおおくなる。鼠は猫が少なくなれば多くなる。猫は三味線の皮の需要で少なくなる。三味線の需要は盲人が多くなる事から、盲人は眼に塵埃の入る事から多くなり、塵埃は春風で多くなる。これ故に春風が吹けば、建具屋が喜ぶ、という論理と同様である。こんな事でも、哲学者からいわるれば、成程そうかな、と思われるように、神経衰弱でも学者から論理的に説明されると、成程と迷信するようになるのである。
神経衰弱の誤説
次には更に上の神経衰弱症の理論から、神経衰弱の症状と療法とを割り出して来る。例えば疲労の結果として、身体はだるく、頭は重く、刺激性となり、不能となる等々、種々の症状が組立てられるようなものである。
その療法も従ってこれから割り出されて、疲労は安静によりて恢復され、疲労による刺激性は、鎮静薬によって安静にされる、という風に考えられるのである。
その理論的に割り出された症状は、実は実際の症状とは違うのである。ベアードが神経衰弱は、刺激性衰弱であるといったが、余から見れば、それは実際のものではなくて、見かけの仮性刺激性衰弱であって、真の衰弱ではないのである。
今、長い間の不能を訴えている患者があるとする。多くの医者は、これを聴いて、直ちに神経衰弱と診断し、催眠剤を与える。これは実は理論的の処置であって、実際には不合理である。医者はこれに対して、患者の実際を調べようとはしないのである。この様な時に、よく患者に聞きただせば、患者は実は夜は8,9自頃に就床し、朝は9時10自頃に出づるという風で、その間総計6,7時間は眠っているとかいう事が、決して少なくないのである。これに対して催眠剤を与えれば、患者が益々不快の症状に悩まされるようになる事は当然である。
事実唯真
ある中学卒業生は、5年来、耳鳴り症に悩み、多くの耳鼻科の医者にかかり、鼻中隔湾曲の手術まで受けた事がある。患者はこのため、縷々不安にかられては、自殺の事まで考えたとの事である。
余がこれを診察すれば、患者は唾液を嚥下する時に、鼓膜がプクンと外に腫れ出すような気がして、障子の破れに風が当るように、ブルブルと響くとの事である。余も試みに患者と同じ様に、唾液を飲み込んで見ると、同様にその様に感じ得るのである。即ちこの患者は、神経衰弱ならで、普通にあり得べき感覚を病的の事と恐れ心配して、5年来苦しみ悩んだものである。
然るに従来、耳鼻科の医者は、この患者の耳鳴りの事実を追究せずに、耳鳴りがあれば神経衰弱たらんと考え、その原因を探らんがために、耳を検査し、鼻の手術を試み、さては鎮静薬を与え、静養を勧めたのである。かくの如きは、誠に医者の常識であって、医学に対して、極めて忠実であったがために、これに反比例して、患者に対しては、実にその人生を無視し、その苦悩に対しては、全く同情を失っていたものである。
神経衰弱の治療に対しても、多くの医者は、単なる安静や暗示療法の理論を以て、何処までも押し通し、実際に患者が、これによって、却って有害無益の結果を来すという事の事実を少しもつきとめて考えようとはしないのである。
余は常に「事実唯真」「事実に非ざれば真に非ざるなり」、「事実に契わざる哲学もしくは学問は、論理や思想の遊戯である」といっているのである。
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