2017年10月16日月曜日
入院患者の日記(1)(第1巻 第3号)
第6日、……今日初めてお座敷の掃除をした。全身の注意を傾注してやらずにはいられなくなる。心配な仕事が却って愉快な仕事である。井上さんは私に教えて下さった。「掃除するにも、器物や置物やを必ず元の所に置かなければならぬ。これは他人の思わくを尊重する事である。もし単に自分の好きなように、色々に物を置きかえるならば、それはただ自分の几帳面感の満足のみで、自己中心的の行動である。物を大事にし、人を尊敬するという事がなくなるのであると、先生は説明されたとの事である……。「先生に近寄る事の必要を考えて、2階へ障子拭きに行く。近寄るのは苦しいが、近寄らざるは猶更に心細い。先生は絹地に書を書かれていて、その手伝いを頼まれた。非常に緊張して、文字通り戦々兢々たらざるを得なかった。先生からは一言もお話を承らなかったけれども、お話以上のあるものを得たようである。先生の書かれたものは、「事実唯真」「斯くあるべしといふ猶ほ虚偽たり、有るがままにある即ち真実なり」「自然に服従し、境遇に柔順なれ」等である。……日記を見る、先生から赤字で「よく解る感心……」何と嬉しい言葉だろう……
2017年10月9日月曜日
生活は調和である2
刺激の変化の工夫が芸術である
吾人の心身の機能は、変化がなく無刺激である時には、何時とはなく弛緩し倦怠を生ずる。またたとえ刺激は相当に強くとも、同様の事が長くつづく時は、何時しかこれに慣れて変化を感じないようになる。即ち吾人は適度の刺激によりて、その心身の機能が弛んでいる時には、これを鼓舞し、余り過敏である時には、これを緩和して、その生活機能を調節して行く時に、吾人はこれをリズムとして感ずるようになる。即ち芸術と称するものは、この関係から発生するのである、といってもよい。
音楽、舞踏等は、この種々の刺激の変化を工夫したものである。音階が次第々々に高くなるとか、身体の運動が次第に早さを増すとかいう場合は、自ら心を緊張させ、これと反対に、音が次第に低くなり、運動が次第に遅くなる時には心を弛緩させ、落付かせる。また変化が突如として急激に起る時には、心が急に目醒め、引立つようになる。これ等の関係を、緩急節序に組立てたものが、芸術となって来るのである。
吾人は初めは、まずリズムの単調なるものを聴き分け、視分ける事が出来て、これを好み、後にはこれに飽いて、次第に強烈、複雑なるものを悦ぶようになる。而して後にはまたこれにも飽いて、却って単調、純朴なるものを好むようになる。近頃、流行するジャズとかいうものは、恐らくは年少気鋭、もしくは粗野の人の愛好するものであって、老練となれば、却って能楽とか神代楽を好むようになるかもしれない。建築についても、日光の東照宮は、華美壮麗ではあるが、伊勢大廟の荘厳雄大なるには及ばないように思われる。眼に視る曲線の変化は、もとよりリズムの感である。これ等のものの好愛の相違は、各々その人の精神内容とこれとの調和の如何によって定まるものである。
事物の内容と自分との調和
かの乳児の泣く声は、少青年者には随分うるさい、いやなものである。けれどもこれが子を養うた親、さては、それが我子であるならば、さほどうるさくもなく、あるいはリズミカルにさえ聴きなさるるものである。即ちこれは乳児と親の心の内容とが調和する事であって、初め無感興の事でも、その内容を知る事によりて、次第にリズミカルに感ずる事が出来るようになる。音楽でも舞踏でも、単に初めてこれを聴きまたは視るのと、自らこれをやった事のある人とは、その感興に非常の相違のあるものである。
人が自分の国の音楽や風俗習慣やに親しみを感ずるのは、これに同化したがためであって、啄木の歌に、「かにかくに渋谷村は恋しかり、思出の山、思出の川」というのは、即ちこの親しみの感じである。多くの若い人が、あるいは土人の音楽や舞踊等に面白がるのは、単に目先の急変した好奇心というに止まって、その感興とは趣を異にする所があるのである。
心を引き立たせるのはリズムによる
おおよそ物事をリズミカルにする時には、これがためにその生活機能を引き立たせるようになるものである。貧乏ゆるぎは怠屈をまぎらせ、手拍子、足拍子では活気をつけ、巾跳びの時、小走りに走り、物を投げる時、振子運動の惰性をつけるとか、また煉瓦積み職工や、鉋けづりにも、各それ相当の一定の調子が出来、煎餅焼が身体を揺り動かし、鰻の蒲焼が団扇をバタバタと音させる等、皆リズミカルに調子と拍子とをつけるものである。
このリズムは初め単調のものから、次第に複雑なるものとなり、音楽でも発達するに従い、非常に複雑なる音の組合せをまとめて、これを大きなリズムに統一する。これは例えば海面の大波の揺れは、その一つ一つが更に小さな種々の波から成立っているようなものであり、また者の分類に、種から類、目から綱と分けるようなもので、種が重なり、類が重なって、各リズミカルになるようなものである。
これと同じく吾人が仕事の能率を挙げるに、複雑なる変化を分類、整理、統一して、これを経済的にし、リズミカルにする傾向がある。図書、台所道具等の整理や、日常生活のやり繰りやも皆同様である。
リズムは記憶や仕事の能率をあげる
吾人の記憶法も、不規則なる変化を調子よく、リズミカルなものになおして利用する事がある。電話番号や歴史の年号などを、意味のある文句に組み直すとか、薬の分量を記憶するに、「モルヒネの皮下注射、ささせよ(3、センチグラム)1度(1デシグラム)で治る」とか、また歌の口調にすることは、昔からその例が幾らもある。『にくしとも、つれてごんせや七吾さん、六一八は下の座に居る』といって、296 753 618 どちらから数えても、同じく15の数になる。また『嗅いで視る、動く車の三の外、顔聴く舌に迷ふ副舌』といって、脳神経の12対を記憶するとかいうようなものである。
また仕事には、他の刺激や活動やのリズムを補助として、その能率を増そうとすることもある。地つき固めの人数が、エンヤラヤーの調子を取るとか、歩行に手を振るとか、字を書くに口を曲げるとか、製図に飽いた時に鼻唄でやるとかいうようなもので、芝居、舞踏の伴奏はそれであり、余はラジオのベートーベンの曲を伴奏と見立てて原稿を書いた事もある。
以上は吾人の感興とか仕事の能率とかとリズムとの関係を述べたが、この記述の目的は、実はリズムが吾人の精神修養と大なる関係があるという事を説明したいがための誘導であるのである。
リズムと精神修養
吾人は外界の種々複雑なる不快なる刺激でも、自分の精神的態度によりて、これをリズミカルに受け入れ、これに自己を調和同化させて、これに対して無関心となり、更に進んではこれを感興とさえする事もできるのである。
少しく言を誇張していうならば、もし芸術が、単に吾人の快感もしくは精神の鼓舞をのみ目的とするならば、それは単に芸術のための芸術であって、人生のための芸術ではない。もし芸術の訓練、修養により、人生の不快をも感謝となし、醜をも美化し、悪をも善化するとすれば、それこそ理想的の人生の芸術である。もし人生を離れた単なる快感のための芸術であるならば、それは恰も菓子屋が、人生は菓子である、と主張するようなものである。
船に暈わぬ法
今例えば船の暈という事がある。これは船の動揺、臭気、エンジンの響等が、人の感覚の調和をかき乱して、不快を増悪させるがためである。船に暈わない方法は、これ等をリズミカルにし、自分をこれに調和、共鳴させるようにしさえすればよい。即ち船の動揺については、船が浮き上る時は、自分はむしろ一歩進んで、これを引き上げるように、自分の身体を持ち挙げる心持になり、次に船の沈む時には、身体をおしつけるようにし、これに調子を合せて行けば、初は故意に意識的で、不愉快であるけれども、間もなく無意識となり、自然に船と調和し、リズミカルになるのである。自ら船をこいで、船に暈わないのは、船と自分との運動が一致するためである。医学者が船暈に関して、内耳、三半規管の障害であるとか、種々の説を立てるのは、単に人間の解剖生理のみに拘泥して、吾人心理の相対的関係という事に気付かない為である。もしこれを三半規管で説明するならば、船をこぐ時に暈いて、静かにして居る時には暈わない筈でなければならない。
船のエンジンの音でも、最も簡単にいえば、単位静かに、耳を立てて、これに聴き入っていれば、間もなく自然に調和され、例えば日蓮宗ならば、トコトントコトン、下駄屋ならばポックリポックリと、これがある一定のリズミカルの調子に聴きなされるようになり、不快はなくなり、船暈は起らないのである。
音が邪魔になるのは、これに反抗するため
電車通りに住まう人の電車の響でも、屋外のブリキ屋の音でも、初め少しく我慢して、これに聴き入っていれば、これが少しも不快でなくなり、これを聴きながらに、読書でも思索でも出来るようになるのである。
もし音が邪魔になるといって、これに反抗し、これを聴かないように、気を紛らせるようにしようとすれば、遠くかすかに響く日蓮宗の扇団太鼓の音でも、読書の邪魔になり、枕元の懐中時計の響きでも、睡眠が出来ないようになるのである。 小児の立ち騒ぐうるささでも、それが自分の子ならば、その子の心持となり、同情となりて調和するために、少しも邪魔にはならないのである。
船の臭気でも、成るべくその香いに早く慣れるようにつとめ、これに反抗し、これを拒逃しないようにすれば、早く暈わないようになるのである。
自然に服従し、境遇に柔順なれ
急流の橋の上から見下す時や、汽車の走る所を見て、その内に吸い込まれるように感じ、眩暈のような感を起すのは、皆これを恐れて、その感覚に反抗するがためであって、流水または汽車と同じ速度に目を動かせば、全く何の触りもなく、無碍自由であるのである。
勉強の苦痛や、家庭の仕事や、社交の煩累や、皆これを自分の心の境遇によりて、これをリズミカルに調整する時には、吾人の生活は、常に無碍自由であるべきである。それにはまず自分がその内に没入同化して、その境涯になり、徒にこれに反抗せず、拒逃しないようにする事によるのである。余はこれを『自然に服従し、境遇に柔順なれ』というのである。
2017年10月4日水曜日
生活は調和である(第1巻 第3号)
生活は調和である(第1巻 第3号)
調和はリズムよりなる リズムとは律動で、規律的、周期的、反復性の運動もしくは感覚に名付けたものである。
宇宙の現象はリズムであって、リズムがなければ現象はない。時間、空間の認識はないのである。大は天体より、小は電子の微粒まで、必ず一定の運動があって、初めてそこに宇宙の万象が成立している。
波動はリズムであって、光線は、電子のような微粒子の波動であるといわれ、音響は空気の波動である。五官器は各特殊の波動を神経に伝えて、それぞれの感覚を起すものである。しかるにこれは、光とか味とか温とかとして感ずるのであって、これを波動として感ずるのではない。
以上は理学的のもので、直接に吾人の感じの上に関係はないが、心理的のリズムは、一定の形に反復さるる感覚をいうのである。
これにも単復種々の相違があって、音または運動の単一なる反復から、節、句、拍子等の複雑なるものの反復もあるのである。音楽、舞踏はそれである。
五官器についていえば、単調のリズムは、時計の振子、定斎屋のカンの音、日蓮宗の太鼓等は、耳のリズミカル感覚。波、風車、軍隊の進行等は視覚。マッサージは触覚。煙草を吹かし、飯と副食物と交互に食う等は味覚。貧乏ゆるぎ、歩行等は運動感覚。呼吸、活動と休息、睡眠と醒覚等は一般感覚である。舞踏の如きは、自ら運動することと、他からこれを視る事とは、運動感覚と視覚との相違であって、その興味が全く異なるものである。
注意作用もリズムから成る
吾人の生活機能は、心臓の拍動、呼吸、消化器の活動、筋肉の運動等、皆リスム運動であるように、吾人の精神機能も、リズムであり、注意の機能にも、不知不識の間に、緊張と弛緩とが交代して、リズム運動になっている。例えば吾人がある一点を注視するときには、初めこれが明瞭に視え、次に次第に暗く不明瞭となり、一定の時間において交代して変化する。また時計の振子の音は、初めに聴く音が高く、次の音が低く、高低交互に聴える。実は振子の音に高低があるのでなく、これを聴く耳の注意に、緊張と弛緩との交互の変化があって起るのである。即ち振子は、初めに右から聴けば、その方が高く、また左から聴き始めれば、左が高く聴こゆる事によって分る。これは丁度、ハッと驚きて、手を握りしめ、次に安心してこれを弛める。という事に相当し、即ち筋肉の緊張と弛緩とに相当しているのである。これが吾人の注意のリズムである。
この自己内界の変化でも、外界の刺激でも、これが日常の慣れたる事であって、自己の身心に調和している時は、そのリズムの変化を自覚しない。例えば呼吸や歩行等も、平常はこれを自覚しないけれども、呼吸困難とか坂を上るとかいう時には、これを強く自覚するようになる。
急いで落付く事(第1巻 第3号)
急いで落付く事(第1巻 第3号)
達人の能は、静かに速く、和かに強し。未練の能は、静かにといえば遅く、動けといえば躁がしく、和かにといえば弱く、強くといえばかたくななり。(古人)
急ぐとは、我心の自然発動にして、忙しき時、気のもめる事なり。
落付くとは、周囲の境遇に服従する事にして、仕損じの無きよう静かにすることなり。この心そのままの時、容易に進歩熟練して達人の能となる。
未練の能は、思想の矛盾によりて、徒に我と我心を静かにせんとし、もしくは自己を仕事の型にはめんとするがために起ることなり。(形外)
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