菓子を呪うの記 昭和13年4月 森田形外
余は、これまでしばしば病気にかかった。平常も消化器が弱いから、常に食物に制限があり、食いたいままに、自由にむさぼり食う事は出来ない。妻はいつも、余の腹だけは貧乏だから、消化力の乱費をつつしみ、抵抗力の蓄積を心掛けなければならぬといってきかせるのである。
今度も病気にかかって、久しく寝ているが、軽快期には、何時でも、食欲が亢まって、一寸気をゆるせば、忽ち下痢して、大なる損害を蒙る事がある。先日も見舞いに贈られた菓子にツイ手を出して、やりそこなった。
凡そ世の人は、病人の見舞に、菓子を持って行く事が多いが、どうしたものであろう。健康な自分が、「己れの欲する処を人に施す」がためでもあろうか。
さて、病人に、如何なる場合に、菓子が有害でないかという事を考えて見るに、何としても、どうも、それらしい病気を思い出す事が出来ない。或は中風症か肥胖病位のものでもあろうか。
話変って、西洋のある食道楽の人にある大部の著書があるそうな。その内に、「真の味覚は、食物を口に一杯頬張り、咽喉につまって、呑み下すようでなければ、本当に出るものではない。チビリチビリとかじって、舌の先で味わうようではだめだ」という意味をまわりくどく衒学的に書いてある。これをある日本人が、さも美食通人の真の心境を道破でもしたかのように感服している事があった。余が特に食欲が強勢で、しかも自由に食う事の出来ぬ時、こんな話を聴いて、独り癪に障らざるを得ない。斯くの如き考え方は、単に独りよがりに止まり、決して食通の一般に通ずる真理でもなければ、人情の機微に触れたものでもない。
ある時、一人の正直勤勉な職工があった。少し貯金が出来たから東電株を買いたいという。3,4株しか買えない。余はこれに金を貸して、10株にまとめて買わせた事がある。斯かる時、もし「株を売買するならば、百か千かまとまったものでなければ、本当の面白味は出て来ない。10や20のはしたものでは、けちくさい。むしろ手を出さない方がよい」といったら、どうであろう。
これと同様に、富士登山の真の興味は、馬や乗り物を用ゆるようでは、何でもない。健脚で破征服するようでなくてはダメだとか、男子いやしくも戦場に臨む時、三軍を指揮する将官でなくては仕方がない。曹長や一兵卒位ならばむしろ戦争に行かない方がよいとか、威張ったとしたらどうであろう。これを聴いて、誰でも、これを横着・不人情・我儘者と憎みいやしみ・呪い憤るであろう。
余は常に病気するたびに、大食して威張るものを憤り菓子をくれる人を悦ばず、世に菓子道楽の発達する事を呪うものである。