2017年10月16日月曜日

入院患者の日記(1)(第1巻 第3号)



18歳、頭重常習、神経質患者


  起床第2日、(1月16日)……仕事は器械的では駄目だという。仕事の見つからないのが気になって、昼食も旨くない。焚物の分類を教えてもらう。丁寧にやれば仕事は幾らでもある。しかし考えてみれば、馬鹿げた仕事である。こんな事をしていても仕事になるだろうかと思われる。気を紛らせているのと同じではないだろうか。こんなに考えるのは屁理屈かもしれない。屁理屈がいけないとすると、考えないでやるのだろうか。すると器械的になりはしまいか。疑問を持ちながら、夕方は余り苦痛ではなかった。何もしないでいるよりは、どんな仕事でも嬉しい。…… 


第5日、朝山さんと炭切りをしている所へ、先生が来られて、こんな話があった。「炭切りは手の真黒になる、いやな仕事である。いやな事であるから、きたなくならないように、早く片付けてしまいたい。これが純な心である。この心から出発する時に、初めて色々の工夫が生れる。そこに進歩がある。「日に新に又日々に新なり」で、日々にする度毎に改良が出来るようになる。これに反してこの場合、自分は修養のため、治療のためだから、少々いやでも我慢しなければならないと思うのは悪賢い小理屈であって、これが所謂悪智である。炭切りの目的は、炭が最も有効に焚けるようにするのにあって、修養のために稽古材料にするのではない。修養のためならば工夫はいらない。だから仕事が単に時間つぶし、遊び事になってしまい、何時までも進歩はないのである」…… 


第6日、……今日初めてお座敷の掃除をした。全身の注意を傾注してやらずにはいられなくなる。心配な仕事が却って愉快な仕事である。井上さんは私に教えて下さった。「掃除するにも、器物や置物やを必ず元の所に置かなければならぬ。これは他人の思わくを尊重する事である。もし単に自分の好きなように、色々に物を置きかえるならば、それはただ自分の几帳面感の満足のみで、自己中心的の行動である。物を大事にし、人を尊敬するという事がなくなるのであると、先生は説明されたとの事である……。「先生に近寄る事の必要を考えて、2階へ障子拭きに行く。近寄るのは苦しいが、近寄らざるは猶更に心細い。先生は絹地に書を書かれていて、その手伝いを頼まれた。非常に緊張して、文字通り戦々兢々たらざるを得なかった。先生からは一言もお話を承らなかったけれども、お話以上のあるものを得たようである。先生の書かれたものは、「事実唯真」「斯くあるべしといふ猶ほ虚偽たり、有るがままにある即ち真実なり」「自然に服従し、境遇に柔順なれ」等である。……日記を見る、先生から赤字で「よく解る感心……」何と嬉しい言葉だろう…… 


第7日、この頃は頭痛がしなくなった。また頭痛が起りはしまいかという心配があるだけである。…… 


第8日、……赤面恐怖患者の診察があった。縁側で仕事しながら先生のお話を聴く。一言一言胸にピタリと感じて非常に面白い。思い出すままに、お話を書いてみよう。「人前に出て恥かしいのは冬が寒いと同じであって、感じない訳にはいかない。狂人や白痴でない限り、人は皆恥かしがるものである。だから恥かしいというだけならば赤面恐怖ではない。恥かしがるまいとするのが赤面恐怖である。冬を寒く感じなくする事の出来ないように、恥かしがらないようにする事も出来ぬ。故に赤面恐怖を治すにはまず人前に出たら恥かしいと思え、冬は寒いと思え、腹がへったら食いたいと思え、これが治療の出発点である。発病以前には、今の様に気が付かなかったというが。今ここの卓上の時計のチクタクが今まで少しも聴こえなかったのに、一度気がついた以上、聴かないようにする事は出来ぬ。聴こえるままに聴いていれば、直ちに忘れて聴こえなくなる。この時、それでは時計は聴いていれば聴こえなくなるかと問うのは、誤った質問である。聴こえるものを聴こうとするのは、二重だから益々よく聴こえる。更にこれを聴かないようにとすれば、反抗心のために三重になって聴こえるようになるのである。恥かしがりやでも全くこれと同様である。今恐怖を治そうとするならば、まず第一に西か東か、その向って進むべき目的地を定めなければならぬ。恥かしさの苦しみがいやならば、学校を止めて、山の中に引籠ればよい。成功、出世したいならば学校に行くときめる。学校に行ってみたり、止めてみたり、東へ行ったり、西へ行ったりしていては何時までも到着する所がない。東と定めたら、足踏みでもよいから、その方へ向いていさえすれば、終には行きつく時節が来る。人に会うのが嫌で、引籠るときめたら、決して家の外へ出ないようにする。そうすれば遂には人が恋しくてたまらなくなる。次に外に出るときめたら、決して逃げ込むような事をしてはならない。「町を歩く時、顔を挙げて行くがよいか。それともうつむいて歩いていても差つかえないか」と、そんな質問は誤っている。泥棒の所はうつむいて歩き、自動車が来れば、顔を挙げなければならぬ。人に呼びかけられたら、チラリとその人の顔を見定めなければ、誰とも分らぬ人と応接は出来ない。その人の顔を見つめるとかいう事は、甚だ不謹慎で不敬の事である。時と場合とに応じて変化するもので、上向くか下向くか、予め定めて歩く事の出来るものではない。 

また例えば自分の寒がりを治そうとするにも、まずその目的の方向を定めなければならぬ。炬燵にもぐり込めば寒い事は知らない。皆が外で遊んでいるのが羨ましければ、外へ出るときめる。外で寒いのを我慢して強いて薄着でいる必要はない。沢山に着て、何かをしている間に、暖かくて上着をぬぐ、スキーなどやれば、シャツ一つになる事もある。この時には最早寒がりなどは少しもないのである。赤面恐怖の治療も皆これと同様である。生の欲望なり死の恐怖なり、どちらでも一定の目的に向って進み、あっちこっちと迷いさえしなければ必ず治るのである。 

なお吾々は自分を成るたけ気持よくしようとすれば、益々良くならないが、気持の悪い時でもこれをがまんし忍受していれば、間もなく楽になるものである。例えば君が今夜、寝る時に、最も気持よく眠られる身体の位置はどうか、頭と枕との関係は、どうすればよいかと工夫すれば、決してシックリと工合のよい姿勢は無い。気持が悪くて眠られぬものである。次の晩には、自分で殊更に、どんな位置でも、そのままに我慢して、気持の悪いままに寝ていれば、間もなく楽に眠られるようになる事を、実地に経験して、これを知る事が出来るのである。 


第9日、……今日は植木屋が来たので、その手伝いに、お昼まで、眼の回るほど忙しかった。……故郷の事も心配になる。……何だか心細い。けれども心細いのが私の平常心である。日記を見る。「文章が中々うまい云々」のお言葉は意外である。尋常1年生が石盤にお丸を貰った時のように嬉しい。夕飯を炊く。…… 


第14日、……足袋や便所の手拭やの選択をし、粉炭の埃ひろいをやる。午後初診患者あり、縁側で紐つなぎをしながら、先生のお話を聴く。「働いていればこの病気が治る。ただそれだけ心得ていて実行すればよい。何故に治るかという理論は解らなくともよい。薬理を知らなければ、医者のくれた薬も飲まないというのでは、病は中々治る事が出来ない。薬理を知るに越した事はないけれども、医者の説明の煩累を無視するような不敬意ではいけない。医者に診察を受ける時に、まず必要な事は、その病が重いか軽いか、この後どうなるかの性質と、どうすれば良いかの処置とでなければならない。もし患者が、熱があるから熱さましを下さい、都合があるから分量を多くして早く治して下さいというならば、それは無教育の田舎者のいう事である。自分の強迫観念の不安を去るにはどうすればよいかという事は、熱をさますには、どうすればよいかと問うと同様である。」……またこんなお話もあった。「神経質は、よく自分が意志薄弱者でないかと取越苦労をする。意志薄弱者とは、人生の欲望乏しく向上心のないものをいう。自分で意志薄弱者でないかと心配するものは、偉くなりたいという向上心のあるものであって、意志薄弱者ではない。」 


 診察後に、入院患者に対してのお話もあった。森さんの日記に、「先生や奥さんに注意される度に、自分の気のきかない事に気がつく」とあるのについて、先生のお話が中々難しい。「先生は森さんの脳力を測量するメートルではない。毎日、自分の頭のよしあしを試験していては、頭の進歩する時節はない。毎日、自分の財布の計算ばかりをしていては、貯蓄の増しようはない。それよりはまず自分は貧乏だときめてしまって、少しでも余分のものを貯金して行く気になれば、何時の間にか金持ちになってしまう。自分は頭が悪いと思えば、悪いと決めてしまって、注意された事があれば、その度毎に、少しずつでも知識を増加して行く工夫をすればよい。測量をやめて収穫に努めればよい。そこに進歩がある。気がきかないのは、自分のあるがままの持ち前である。その上に自分は気がきかないと思うのは二重である。気がきかないと思うのは残念であると思えば三重である。この三重のこんがらかった思想の葛藤が強迫観念の出発点である。ただ自分は気のきかないものときめてしまって、少心翼々としてやっていれば、間もなく自分の気のきかない事が気にならなくなり、周囲の事に自然に気がきくようになるのである。先生に何か注意された時は、懼れてまごついても少しも差閊はない。それが人情のあるがままである。まごついてはいけないと思うから、心はその方の努力に奪われて、先生のいった事は、何の事か聴き脱してしまう。注意されて気のきかないことばかりを悲観しているから、何と注意されたか分らない。……」
 等のお話であった。私は毎日自分の気分の測量をやって来たようである。これから、もう止そう。




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